
岐阜の伝統産業が技術承継と組織開発を両立させる考え方
目次
岐阜の伝統産業が技術承継と組織開発を両立させる考え方
「職人が引退したら、この技術は途絶える」——岐阜県の伝統産業の現場で、この危機感が年々強まっています。
私はこれまで500社以上の企業の人事に携わってきましたが、岐阜の伝統産業が直面する「技術承継」の課題は、人事の中でも最も難易度の高いテーマの一つです。なぜなら、この課題は単に「若い人を採用する」「マニュアルを作る」で解決するものではないからです。何十年もかけて身体に染み込んだ暗黙知を次世代にどう渡すか——それは組織全体のあり方を問い直す作業でもあります。
美濃焼の産地として知られる多治見市のある窯元では、70代の職人が持つ釉薬の調合技術を、30代の若手に伝える取り組みを始めました。最初は「見て覚えろ」という従来のやり方を続けていましたが、若手が定着せず、3人が2年以内に辞めてしまいました。この危機をきっかけに、技術承継と組織開発を一体で考え直すプロジェクトが始まったのです。
岐阜の伝統産業が持つ固有の文脈
岐阜県には、全国的にも独自性の高い伝統産業が集積しています。人材戦略を考える前に、この地域特有の文脈を理解しておく必要があります。
美濃焼(多治見・土岐・瑞浪)
日本の陶磁器生産量の約50%以上を占めるとされる美濃焼は、岐阜を代表する伝統産業です。しかし、安価な海外製品との競争や生活様式の変化により、事業環境は厳しさを増しています。窯元の数も減少傾向にあり、技術を持つ職人の高齢化が深刻な課題です。
関の刃物(関市)
「刃物のまち」として世界的に知られる関市では、包丁・ナイフの製造を中心とした刃物産業が基幹産業です。職人の手による研磨や焼き入れの技術は、機械では完全に再現できない領域があり、その技術を持つ職人の後継者不足が問題になっています。
美濃和紙(美濃市)
1300年以上の歴史を持つ美濃和紙は、ユネスコ無形文化遺産にも登録されています。しかし、和紙の需要は限定的であり、産業として持続するためには新しい用途の開発と、それを担う人材の確保が不可欠です。
飛騨の家具(高山市)
飛騨の匠の伝統を受け継ぐ家具産業は、高品質な木工技術で知られています。職人の技術がブランド価値の源泉であり、その技術の承継は産業の存亡に直結します。
これらの産業に共通するのは、「人の手の技術」が価値の源泉であり、機械化やAIで完全に代替することが難しいという点です。だからこそ、技術承継と人材確保が、産業そのものの存続を左右する課題となっています。
技術承継の本質:何を「渡す」のか
技術承継を考えるとき、最初に問うべきは「何を渡すのか」という問いです。
形式知と暗黙知
技術には、マニュアルや手順書に書ける「形式知」と、言葉では表現しにくい「暗黙知」があります。美濃焼の釉薬の調合で言えば、「何グラムの原料を何度で焼く」という部分は形式知です。しかし、「この日の湿度ならこの配合を少し調整する」「この色の出具合を見て窯の温度を微調整する」——こうした判断は、長年の経験に基づく暗黙知です。
形式知はドキュメント化できますが、暗黙知は一朝一夕には伝わりません。「隣で見て、一緒にやって、繰り返し実践する」という時間のかかるプロセスが不可欠です。だからこそ、技術承継は「早く始める」ことが最も重要な戦略なのです。
技術の「背景にある考え方」
職人の技術は、単なる手先の器用さではありません。その裏には、「なぜそうするのか」という考え方——素材への理解、品質への哲学、仕事への姿勢——が存在します。
関市の刃物メーカーのベテラン研磨職人は、こう語っていました。「砥石の当て方は教えられる。でも、この刃物を使う人がどう感じるかを想像しながら研ぐ——その感覚は、教えようとしても教えられない。一緒に何年も研いでいるうちに、だんだん移っていくもの」。
この「感覚の移行」をどう設計するかが、技術承継の最も難しい部分であり、組織開発と密接に関わるポイントです。
経営数字から技術承継を考える
技術承継は「文化の保存」という側面が注目されがちですが、経営的な観点からも非常に重要な投資判断です。
技術途絶のコストを試算する
ある美濃焼の窯元では、ベテラン職人の退職により特定の釉薬技術が一時的に失われ、その技術を使った製品ラインの売上(年間1,200万円)が2年間にわたりゼロになりました。外部の職人に委託して再開するまでにかかったコストは、委託費・品質管理費・営業の機会損失を合わせて800万円以上。
「技術承継に投資する500万円」と「技術途絶による2,400万円の売上減少+800万円の回復コスト」を比較すれば、投資の合理性は明らかです。しかし、こうした試算を事前に行っている企業は少ない。
経営者に技術承継の投資を説得するためには、「この技術がなくなったら、いくらの売上が消えるか」を具体的に示すことが最も効果的です。
承継にかかる時間とコストの見積もり
技術承継には時間がかかります。伝統産業の場合、「一人前」になるまでに5〜10年かかることも珍しくありません。その間の人件費、教育コスト、生産性の低下——これらを計画的に見積もり、経営計画に組み込むことが重要です。
飛騨高山の家具メーカーでは、若手職人1名の育成コストを年間500万円(人件費350万円+指導者の工数150万円)と試算し、「10年で一人前」として5,000万円の投資計画を策定しました。一方で、一人前の職人が生み出す年間売上は2,000万円以上。投資回収期間を明確にすることで、経営者も長期的な覚悟を持つことができました。
技術承継のための組織設計
技術承継は「ベテランと若手の1対1の関係」だけでは進みません。組織全体で支える仕組みが必要です。
1. メンター制度の構造化
「見て覚えろ」という徒弟制度的な方法は、かつては機能していました。しかし、現代の若手にとっては、「何を学ぶべきか」「今どのレベルにいるか」が見えないことがストレスになります。
関市の刃物メーカーでは、技術承継を「ステップ制」にしています。研磨技術を10のステップに分解し、各ステップの到達基準を明文化。半年ごとにベテラン職人と面談して到達度を確認し、次のステップの目標を設定する。「見て覚えろ」の要素は残しつつも、全体の道筋が見えるようにしたことで、若手の定着率が大幅に改善しました。
2. 暗黙知の「半形式知化」
すべての暗黙知を形式知にすることは不可能ですが、「半分くらいは言語化・映像化できる」というのが、私の経験からの実感です。
美濃焼の窯元では、ベテラン職人の作業を動画で記録し、その動画にベテラン自身の解説ナレーションをつけるプロジェクトを進めています。「ここで手首を少し返す」「この音がしたら温度がちょうどいい」——映像と音声を組み合わせることで、言葉だけでは伝わらない感覚の一部を可視化できます。
この取り組みの副次効果として、ベテラン職人自身が「自分の技術を改めて言語化する」ことで、技術の理解が深まるケースもありました。「何となくやっていたことを、なぜそうするのか考え直す機会になった」という声は、技術の進化にもつながっています。
3. 複数のベテランからの学び
一人のベテランから一人の若手へ——この1対1の承継は、「その人の癖」まで含めて移転してしまうリスクがあります。複数のベテランから学ぶ機会を設けることで、技術の本質(共通する部分)と個人差(癖や好み)を若手自身が判別できるようになります。
美濃和紙の工房では、3人のベテラン職人のもとを3ヶ月ずつローテーションで若手が回る仕組みを導入しています。「Aさんはこうするけど、Bさんは少し違うやり方をする。どちらが良いかは、素材と目的によって使い分ける」——こうした「技術の引き出し」が増えることが、次世代の職人の技術力を高めます。
若手人材の確保:伝統産業に人を呼ぶには
技術承継の前提として、「若手に来てもらう」ことが必要です。伝統産業への就職は、若年層にとってまだまだマイナーな選択肢です。しかし、ここ数年、伝統工芸やものづくりに関心を持つ若者が増えているという兆しもあります。
「職人」という生き方の再評価
SNSの普及により、伝統産業の職人の仕事が可視化される機会が増えました。InstagramやYouTubeで職人の作業動画が何万回も再生されるケースがあり、「職人ってカッコいい」という感覚を持つ若者が増えています。
高山市の木工メーカーでは、若手職人がYouTubeチャンネルを運営し、木工技術の解説動画を投稿しています。チャンネル登録者数は1万人を超え、「この動画を見て応募しました」という求職者が年間5〜6名います。その中から毎年1〜2名を採用しており、採用コストはほぼゼロです。
地域外からの移住者をターゲットにする
岐阜の伝統産業に就職する若手の中には、県外からの移住者が少なくありません。東京や大阪で別の仕事をしていたが、「手を使う仕事がしたい」「自然の近くで暮らしたい」という動機で移住してくる人がいます。
こうした移住者を受け入れるためには、住居の確保、地域コミュニティへの参加支援、移住初期の生活サポート——といった「仕事以外の支援」も含めた受け入れ体制が必要です。自治体の移住支援制度と連携することで、企業単独では難しい支援が可能になります。
美濃市では、美濃和紙の職人を目指す移住者向けに、自治体が「お試し居住」プログラムを提供しています。最長3ヶ月、家賃補助つきの住居に住みながら、工房での実習体験ができる。このプログラムを経て就職を決めた若手は、過去5年間で8名。通常の求人では出会えなかった人材の獲得につながっています。
給与と生活設計の現実的な提示
伝統産業の給与水準は、一般的に他の製造業と比べて低い傾向があります。この現実を隠すのではなく、「岐阜の生活コストの低さ」とセットで提示することが重要です。
高山市の家賃相場は、東京23区の3分の1以下です。食費も地元産の新鮮な食材が安価に手に入る。通勤時間はほぼゼロに近い。月給20万円でも、東京の月給30万円と同等以上の生活水準を実現できる——こうした「実質的な暮らしやすさ」を数字で示すことが、移住を検討する若手の不安を解消します。
組織開発としての技術承継
技術承継を「個人の技術の移転」として捉えるのではなく、「組織の進化の機会」として捉える視点が重要です。
世代間対話の促進
技術承継のプロセスは、世代間の対話を生みます。ベテランが若手に教える中で、若手から「なぜそうするんですか?」という問いが投げかけられる。その問いに答えるプロセスで、ベテラン自身の技術理解が深まることもある。
また、若手がデジタル技術やSNSのスキルを持っている場合、ベテランの技術を動画で記録したり、SNSで発信したりする取り組みを若手が主導することもあります。「ベテランが教え、若手が学ぶ」だけでなく、「若手がベテランに教える」場面も生まれることで、双方向の関係が構築されます。
土岐市の窯元では、20代の若手が60代のベテラン職人にInstagramの使い方を教え、ベテランが若手に釉薬の調合を教える——という「相互メンタリング」が自然発生的に生まれています。この関係性が、職場の雰囲気を良くし、若手の定着にもプラスに働いています。
「守る」と「変える」の両立
伝統産業の技術承継で最も難しいのは、「伝統を守りながら、新しい挑戦もする」というバランスです。ベテランは「伝統の技術を変えてほしくない」と思い、若手は「新しいことにも挑戦したい」と思う。この価値観の違いが、世代間の軋轢を生むことがあります。
この問題を解決するには、「守る領域」と「変えてもよい領域」を明確に定義することが有効です。
関市の刃物メーカーでは、「研磨の基本工程」は伝統技術として忠実に承継する一方、「新素材への対応」や「海外市場向けの製品開発」は若手が自由に挑戦してよいエリアとして定義しました。この「守る」と「攻める」の境界を明確にしたことで、世代間の対立が減り、むしろ協力関係が強化されました。
伝統産業の人事が持つべき視点
伝統産業の人事は、一般の製造業の人事とは異なる視点が求められます。
「効率」だけでは測れない価値
伝統産業の技術は、時間をかけて磨かれるものです。「効率的に技術を移転する」という発想だけでは、暗黙知の核心に触れることができません。時間をかけることの価値を、経営者にも若手にも理解してもらう——これが伝統産業の人事の重要な役割です。
ただし、「だから効率を考えなくてよい」ではありません。限られた時間とリソースの中で、どう優先順位をつけ、どの技術から承継を進めるかという判断には、経営的な合理性が必要です。「この技術が失われたら売上にどれだけ影響するか」という数字感覚と、「この技術は時間をかけなければ伝わらない」という文化的感覚の両方を持つことが求められます。
地域との一体感
岐阜の伝統産業は、地域のアイデンティティと密接に結びついています。美濃焼は多治見のまちづくりと、関の刃物は関市の観光戦略と、飛騨の家具は高山の文化ブランドと——切り離せない関係にあります。
人材確保においても、「この企業で働く」だけでなく「この地域で暮らす」という文脈が重要になります。企業単独の採用活動ではなく、地域全体の魅力発信と連携した採用が効果的です。
10年後を見据えた技術承継計画
技術承継は、短期的な施策ではなく、10年スパンの長期計画として設計する必要があります。
ベテラン職人の年齢と健康を考慮したタイムライン
現在60代のベテラン職人が、あと何年現場に立てるか。70歳まで働くとして、残り5〜10年の間に、核心的な技術をどこまで若手に移転できるか。この時間的な制約を明確にし、「今年中にここまで」「3年以内にここまで」という具体的なマイルストーンを設定する。
段階的な権限委譲
技術承継と並行して、仕事の権限を段階的に若手に委譲していくことが重要です。「5年後にはこの工程を任せる」「8年後にはこの判断を任せる」——こうした段階的な委譲計画を、ベテランと若手の双方と共有しておくことで、承継プロセスに対する安心感が生まれます。
瑞浪市の窯元では、ベテラン職人が68歳の時点で「5年後の完全引退」を宣言し、若手職人との共同作業を増やしていきました。最初の2年は「隣で見守りながら」、次の2年は「困ったときだけ助ける」、最後の1年は「完全に任せて口を出さない」——この段階的なプロセスが、技術と心理の両面での承継を実現しました。
岐阜の伝統産業が直面する技術承継の課題は、一朝一夕には解決しません。しかし、経営数字に基づく投資判断、組織的な支援体制、そして地域連携による人材確保——これらを組み合わせることで、伝統の技術を次世代につなぐ道は確実に拓けると、私は確信しています。
本記事は、東海地方の伝統産業における人事課題を長年支援してきた経験に基づいて執筆しています。個別の人事課題についてのご相談は、人事図書館にてお受けしています。
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